ログインそんなある日、流は雉を狙って息を殺して草むらにいた。
あと少しで捕まえられる、という時に足音がして雉が逃げてしまった。ったく、誰だよ……。
流が振り返ると、水緒が初老の男と歩いてくるところだった。
水緒!
一瞬、心臓が止まりそうになった。
いつもなら村で子供の面倒を見ながら仕事をしている時間なのに、なんでこんなところに……。
水緒はいつも着ている粗末な着物ではなく小綺麗な格好をしていた。
一緒にいる初老の男は白い着物に赤い袴をはいている。こんな獣と鬼しかいない山奥に何の用があるんだ?
それもあんなに、めかし込んで。
流は逡巡したが、やめておいた。
もしかしたら鬼が襲ってくるかもしれないし、戦いになったらたとえ勝てたとしても人の姿は雉を追って随分上まで来てしまった。
獲った雉を食おうとした時、
「っ!」 短い悲鳴のような声が聞こえた。水緒……!
流は雉を放り出して声のした方へ駆け出した。
斜面を駆け下り、丈の高い
「水緒!」
「流ちゃん! 来ちゃ駄目!」 「水緒を離せ!」 水緒を掴んでいる鬼に駆け寄ろうとした時、 「流ちゃん!」 水緒が流を止めるように叫んだ。「いいの、私に構わないで。流ちゃんはこの鬼が私に気を取られてる間に逃げて」
「お前、自分の状況分かってるのか! 鬼に喰われそうになってるんだぞ!」 「分かってる。でも私がこれか!
水緒の聞き分けが良かった理由。
何もかも諦めた表情。 いずれ生贄にされると知っていたからだ。おそらく母親の死因も……。
「そいつがいなけりゃいいんだろ」
鬼に襲われないための生贄なら居なくなれば必要なくなる。 「え?」 流は水緒を掴んでいる鬼の腕に飛び付いた。 鬼が腕を振り回す。 「きゃ!」 水緒が地面に落とされ、流は近くの大木に叩き付けられる。骨が折れる音が聞こえた。
肋骨が何本か折れたようだ。 それでも流は鬼に向かっていった。 この程度なら大したことはない。 今までの鬼との戦いはもっと深い傷を負った。 流が再び鬼の腕に飛び付く。 鬼の腕は恐ろしく太く、長かった。 今度は地面に叩き付けられる。「流ちゃん!」
自分がこれくらいなら……。
胸から下は血で真っ赤に染まっていた。
それでも立ち上がると、鬼の腕をかいくぐって懐に飛び込み長い爪を腹に突き刺す。 いつの間にか人の姿が保てなくなって鬼の姿になっていたようだ。 だが戦うなら爪の長い鬼の姿の方がいい。 水緒に嫌われてもいい。 助けることが出来るのなら。 嫌われれば諦めも付く。 流の手が届くのは腹までだから、鬼の攻撃をかいくぐって腹と背を攻撃した。「ーーーー……!」
鬼が吠える。 振り下ろされた腕を水緒は……。
助かったのは分かっているが一目無事な姿を見たかった。
水緒は目を見張り口を押さえて流を見ていた。
これで完全に嫌われた……。
そう思ったとき水緒が駆け寄ってきた。
「流ちゃん! ひどいケガ! ごめんね。私のせいで。ごめん……」
水緒が再び泣き出した。 流は自分の腕を見た。 長い爪。 今は鬼の姿をしているはずだ。「村へ行こう。早く手当を……」
「水緒!」 水緒の言葉を遮って男の声がした。 振り向くと村人達がいた。 「あ、村長さん、あの、流ちゃんは私を助けてくれ……」 「なんてことしてくれたんだ!」 村人達は敵意を持った目で流と水緒を睨んでいた。 鬼が退治されて喜んでいるようには見えない。「お前は鬼の仲間だったのか!」
「違う! 水緒は……!」 「ああ、赤鬼様、おいたわしや」 老婆が倒れている鬼を拝んでいるのを見て流は困惑した。どうなってるんだ?
「面倒を見てやった恩を忘れて! なんて子だい!」
「飯一杯で水緒を散々働かせておいて何言ってんだ!」 流は拳を振り上げようとした。 「流ちゃん、やめて。村の人には良くしてもらってたの」 水緒が流の拳を掴んだ。 「出ていけ!」 女がそう言うと誰かが石を投げた。 「っ!」 石が水緒のこめかみに当たって血が流れた。 「貴様ら!」 「流ちゃん、駄目」 水緒は村人に襲い掛かろうとした流の胸に抱き付いて引き留めた。 「お願い、やめて」 流は渋々下ろした拳を握り締める。 村人を一睨みすると水緒を連れて山を下りた。花を探している時、不意に、「最可族!」 流はぎょっとして自分の腕を見た。 いつの間にか袖が少しめくれて祟名が見えている。 目を上げると水緒と同い年くらいの女がこちらを睨んでいた。「あたしを殺しに来たのかい!」「何の話だ」 女の首に「身虫」という文字がある。 この女も最可族か……。「お前こそ俺の刺客じゃないのか」 流と女は睨み合った。「あんた最可族でしょ。あたしを殺しに来たんじゃないのかい?」「お前も最可族に狙われてるのか?」 流の問いに、女が戸惑ったような表情をした。「お前もって、あんたも最可族に狙われてるのかい?」 二人はお互いに見つめ合ったまま立ち尽くしていた。 どうしたらいいのか分からなかったのだ。 初対面で信用するわけにはいかないが、敵ではないなら戦っても骨折り損だ。 何より相手が最可族では下手に戦うと人の姿が保てなくなるかもしれない。 互いに様子を窺っている時、「流ちゃん、お待たせ」 水緒がやってきた。「水緒」 流はさり気なく水緒と女の間に入って、水緒を庇った。「流ちゃん? どうしたの?」 水緒が心配そうに流を見上げた。「いや、なんでもない。帰ろう」 流はそう言って水緒を促すと、女を避けるようにして歩き出した。 背中に女の視線を感じながら。「水緒、ちょっといいか」 桐崎の声が聞こえてきた。 部屋で書見していた流は部屋から台所の方を覗いた。 夕餉の支度をしていた水緒が振り向く。「はい」「お前、奥田を知っているのか?」「奥田?」 水緒は少し首を傾げてから、「ああ、おじ様の門弟の。その方がどうされたのですか?」 と訊ねた。「うむ、実はな。これをお前にと渡されたのだ」 桐崎は懐から包みを取り出すと水緒に櫛を見せた
朝、素振りをしていると水緒が手拭いを持ってやってきた。「そろそろお稽古の時間だよ」 流は水緒から手拭いを受け取ると汗を拭いた。 そこへ小森がやってきた。「桐崎殿、水緒さん。おはようございます」「おはようございます」 水緒が礼儀正しく挨拶を返した。「お二人は許嫁だったのですか」 小森の言葉の意味が分からなかったらしく水緒は訊ねるように流を見上げた。 おそらく桐崎は縁談を持ち掛けてきた家に流と水緒は許嫁同士だから、と言って断ったのだろう。「そうだ」 流は即答した。「これは知らぬこととはいえ失礼しました」 どうやら小森の親が水緒に縁談を持ち込んだようだ。 水緒は相変わらず小森の言ってることが分からないらしい。「水緒、そろそろ時間だ」「あ、そうだった。失礼します」 水緒は流に手を振ると歩き出した。 流が道場に入ろうとした時、中で怒声がした。「そこもとが物でつってお和を籠絡したのであろう!」 石川が今にも掴み掛かりそうな勢いで怒鳴った。「お和は貧乏御家人より金持ちの旗本を選んだだけだ」 奥田が嘲笑った。 流は眉を顰めた。「お和殿も贈り物には弱かったようですね」 小森が流の隣で言った。「どういうことだ?」「お和殿は元々石川殿の幼馴染みだったのです。内々にではあったが言い交わしていた様子。そこに奥田殿が割り込んだのです。何でも高価な櫛や簪などで贈り物責めにしたとか」 小森がそう教えてくれた。 流は殴り合いの喧嘩になりそうな二人の間に割って入った。「喧嘩なら外でやれ。もう稽古が始まる」「こちらは喧嘩などする気はない。石川殿が勝手に怒鳴り散らしているだけのこと」「勝手なのはどちらだ!」「うるさい、出ていけ」 流は静かに二人に向かって言った。「桐崎殿もせいぜい水緒殿を取られぬようにな!」 石川が
人混みを抜け二人は人気のない路地に入った。 その路地を抜けた先の空き地の隅に他の木々に紛れて小さな桜が一本だけ生えている。 ここは二人だけの花見の場所だ。 初めて水緒と二人だけで花見に来た時、道に迷って入り込んだのがここだった。 何とか上野への道を探そうと地図と首っ引きになっている流に、「流ちゃん、ここでいいよ。桜、ちゃんと咲いてるよ」 と言った。「たった一本、それもこんな小さい木だぞ」「大きくても小さくても桜は桜だよ。私にとっての流ちゃんと同じ」 水緒はそう言って微笑んだ。 それは流にとっての水緒も同じだった。「ね、ここを二人だけのお花見の場所にしよう。ここなら静かに見られるし」「水緒がそれでいいなら」 確かに水緒しかいない場所なら気を張り詰めている必要がないから流としても異存はない。 それ以来、二人は毎年ここへ来ている。「この木、大きくなってきたね」「そうだな」「あのね、私の錦絵を描きたいって言われたの」 水茶屋の看板娘を錦絵に描くことは良くあった。 店の方も宣伝になるので快諾する。「一枚くれるように頼んだの。流ちゃん、貰ってくれる?」「ああ」 江戸中から水緒を見に男どもが集まるのかと思うと不愉快だが引き受けてしまったのなら仕方ない 流が辺りを見回した時、桜の背後の崖の上に白い花が咲いてるのが見えた。 白い色が水緒の純粋さを、風に揺れる姿がか弱さを表しているように思えた。 流は崖に取り付いて上った。「流ちゃん?」 流が花を取った途端、足場にしていた石が外れて転がり落ちてしまった。「流ちゃん、大丈夫!?」 水緒が慌てて駆け寄ってきた。「これ」 流は花を水緒に差し出した。「私に? 有難う。流ちゃんからの贈り物なんて嬉しい」 水緒が本当に嬉しそうな笑顔で言った。 あまりの喜びように流の方が戸惑った。「雑草だぞ。
流はここ数年で剣の腕が上がった。 勿論まだまだなのだが桐崎の化物討伐に同行出来るくらいにはなった。 討伐は大抵桐崎、小川と三人で行く。 化物が現れるところで待ち受け、討伐対象がやってくると小川が結界を張って敵に逃げられないようにする。 討伐の依頼人は対象の化物に狙われていることが多い。 当然敵は依頼人の前に現れる。 小川は依頼人にも結界を張る。 化物を倒したはいいが依頼人も死んでしまった、なんてことになったら報酬がもらえなくなるからだ。 それに依頼人を死なせた、などという事になったら当然評判が落ちて依頼してくる者もいなくなってしまう。 今回の依頼人は大身の旗本だった。 しばらく前から夜になると化物が屋敷に現れるようになったという。 屋敷には結界が張ってあるので化物が入ってくることはないが建物の周りを彷徨かれては夜、外出することもままならないし外聞も悪い。 と言うことで退治の依頼が来た。「拙者がここにいる必要は無い。そうであろう?」 屋敷の庭で依頼人の長男が中に戻りたそうにしながら何度も繰り返している。 事前の調査の結果、化物が狙っているのは依頼人の長男だと言うことが分かったのだ。 それで囮として庭にいてもらうことにした。「来た!」 流が逸速く察知した。 次の瞬間、庭に何かが飛び込んできた。「出た!」 長男が怯えた様子で後退りした。 頭が三つある犬の化物だった。 三頭、いや、もっとか。 複数の犬の怨念が集まったものだ。 化物は真っ直ぐに長男に向かっていく。「うわあああああ!」 長男が頭を抱えて蹲った。 化物が長男の直前で結界に弾かれる。「この犬どもに心当たりがありますな」 その言葉に、長男がびくっとした。 桐崎達は何故犬の化物がこの男の前に現れたのか分かっているようだ。「こいつらを斬りま
流と水緒が江戸に来て五年の歳月が流れた。 流は水緒の働いている水茶屋に着くと足を止めた。「水緒」 流が声を掛けると水緒が振り向いた。「あ、流ちゃん、もうすぐお終いだからそこに座って待ってて」 前掛けをした水緒は茶碗や団子の載っていた皿を持って店の奥へ向かう。 流は毎日水緒の送り迎えをしていた。 贄の印がなくなったとは言え供部であることに変わりはない。 一人で歩かせるのは危険だ。 それに水緒の送り迎えでこう言う盛り場を歩くようになって分かったのだが、危ないのは何も妖だけではなかった。 警戒する必要があるのはむしろ人間の方だ。 水緒は可愛いから特に危ない、と桐崎も水緒の送り迎えをするように勧めた。「仕事は大変じゃないか?」 店を後にすると水緒に訊ねた。「大丈夫。お店の人も優しい人だし、お客さんもいい人ばかりだよ」「そうか」 大変だと言うようなら無理にでも辞めさせようかと思ったが、今のところ上手くやっているようだ。 流は腰に大小を差していた。 最初は歩き辛かったが慣れるとそれほど邪魔にはならない。 武士は二本差しで歩かねばならないらしい。 一本しか差していない者がいるから桐崎に聞いてみたら牢人などは一本しか持ち歩かない場合もあるとのことだった。 流は武家だから二本差して歩くように言われている。 桐崎は流と水緒を武家として育てたいらしい。 言葉遣いなども武家らしくするように言われていたが、流はともかく水茶屋で働いている水緒はなかなかそうはいかないようだ。 武家の人間が水茶屋で働くわけにはいかないので水緒は普段、町娘の格好をしていた。 水緒が町娘の格好をするなら流も町人の格好をしたかったのだが、町人は帯刀が許されていないのでダメだと言われてしまった。 最初、流は人間の身分などどうでもいいと思っていたが、街に長く暮らしていると人間の世界では守らないといけないらしいと言うことが分かってきた。
看板が掛かっており、そこには「よろず御祓い承ります」と書かれていた。 桐崎が玄関でおとないを請うと、 「おお、生きて戻ったか」 総髪の男が出てきた。 髪や髭に白いものが混じっているが、それほど年は取ってなさそうだ。「流、水緒、この人は小川禅定殿だ」 桐崎は小川に流と水緒を紹介した。 「その娘か?」 「印がついてるのはこの子だ。それとこっちの坊主も頼む」 「え?」 流と水緒が同時に桐崎を見上げた。「その坊主が鬼か。長くこの仕事をしているが、子供の鬼というのは初めて見たな。鬼は生まれたときから大人なんだと思っていたぞ」 小川はそう言って笑った。 「おっさん、どういうことだよ」 「いや、鬼避けの結界が張られてるところは意外と多いからな。そう言うところに入れないと困るだろ」 確かに入れなければ鬼だとバレてしまう。 そう言うところを避けようにも流には結界が張ってあるかどうかは分からない。「そんなことが出来るのか?」 「まぁ、儂に任せなさい」 小川はそう言うと奥へと入っていった。 流達が後に続く。 通された部屋は変な匂いがした。「なんかいい匂いがするね」 「これは香の匂いだ」 桐崎が説明した。 小川がごちゃごちゃした絵――曼荼羅というそうだ――の前に座り、水緒に対座するように言った。 水緒が前に座ると、小川は間に置かれた白い台の上の灰が入った器で香を焚いた。 ぶつぶつと何やら言っていたかと思うと、突然、 「喝!」 と怒鳴った。 その瞬間、 「っ!」 水緒が胸元を押さえた。「水緒!」 思わず流が立ち上がった。 「心配いらぬ。印は消えたぞ」 水緒はそっと自分の胸元を覗いてから流を見上げた。 「ホントだよ、流ちゃ







